老子との対話 7~ 売上増加

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老子との対話 7

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老子との対話 7


会社を辞め、自らビジネスを展開するようになって数年が経過した時に強く感じたことがある。
それは「何をやらないか」ということがいかに重要かということだ。


会社員時代にも「何をやらないか」ということの重要性は幾度となく目にしてきた。
代表的なものではドラッカーの劣後順位だろう。
論理的にも、その重要性にも異論はなかった。でも、「確かにやらないことは決めるのは重要だよな」という程度であり、それを本気で意識してはいなかった。


それが自分でビジネスをはじめ、数年が経過した時に変わる。
「何をやらないか」がいかに重要なのかが分かった。


「あれもやりたい」
「これもやりたい」
「あれをやらなければならない」
「これをやらなければならない」


そのように考えていくと、途方もなく忙しくなっていく。
でも、実際には成果は出ない。


もし、あなたが成果が出ていないのであれば、「何をやらないか」が明確になっていないケースが少なくない。


それを実感していただくのに最適なのが、広告だ。
例えば、4つのネット広告を展開した時のクリック率が次のようなものだったとしよう。ネット広告を全く知らない方にも分かりやすく、シンプルなクリック率で説明していく。その他の数値(コンバージョン率)などの条件は同じだと考えてほしい。


広告A 20%
広告B 15%
広告C 10%
広告D  5%


4つの広告を展開していたとする。
これらを均等に展開していたとしたら、全体のクリック率は12.5%となる。


仮に目標とするクリック率が5%であった場合、広告AからDまで全て目標はクリアしていることになる。それに満足し、そのまま全ての広告を継続し続ければ、12.5%のパフォーマンスがずっと続くことになる。


ところが、「何をやらないか」を意識すると、激変する。
例えば、平均以下である広告Cと広告Dを展開するのをやめるとしよう。
その場合(広告ABのみの展開の場合)、クリック率全体は17.5%となり、1.4倍のクリック率になる。
売上で言えば、40%増だ。


でも、話はこれで終わらない


広告ABCDと展開していたのではなく、広告Dのみを展開していたとしたら、どうだろう。クリック率は5%。目標は5%だ。達成はしている。結果に疑問を持たず、それを継続してしまうことだって十分にあり得る。


ここで広告Aを展開していれば、クリック率は20%。広告Dのクリック率5%に対し、4倍だ。多くの選択肢を常に意識し、「何をやらないか」を考えて行けば、広告Aに行き着く。そうすれば、4倍のパフォーマンスを得られるようになる。


これはネット広告をシビアに展開している方であれば、当然の作業だ。
逆に言えば、どの広告を展開しないかという視点を持たない人の成果は平均を大きく超えることはない。


実は我々の人生も同じだ。
私がそのことに気づいたのは、先程もお話ししたとおり、会社を辞め、自分でビジネスをして数年が経過してからだ。
10年以上もの間、ネット広告を展開し、「何をやらないか」を考えなければうまく行かないことは知っていたのにだ。確信して言えるが、我々の人生、我々のビジネスも同じだ。


「何をやらないか?」
それを考え、行動に移すことで、広告と同じように4倍のパフォーマンスを得ることもできる。さらに言えば、仮に1年で4倍のパフォーマンスであれば、10年で実に1048576倍になる。


複利の計算を思い出してほしい。
4倍ではなく、わずか7%でも、10年で2倍になる。それが4倍。400%ということであれば、10年経過すると、1048576倍となる。104万倍だ。驚異的な成果を上げる方は最高のパフォーマンスが発揮できる対象に時間や労力、さらに言えばお金を費やすことがその大きな原因となっている。


「人生に無駄はない」


この言葉は正しいとされている。でも、これは一部は正しく、一部は誤りだ。


確かに過ぎ去った「過去」に対しては正しい。
仮に広告Dを展開するような「過去」を過ごしてしまった場合、過ぎてしまった過去は変えられない。それを可能な限り、活かすようにすべきだ。


でも、未来は違う。
「人生に無駄はない」という考えをもってはいけない。
「人生に無駄はある」だ。
「何をやらないか」を考え、広告CやDを避け、広告A、少なくともBを展開していくような考え方が重要だ。


次の「老子」の言葉は、それを改めて、我々に教えてくれる。


「車の輪は、三十本の輻(や)が中央の一つの轂(こしき)に集まってできている。しかし、轂の中心のなにも無い穴があってこそ、車輪としての効用(はたらき)がはたせることになる。粘土をこね固めて、それで器(うつわ)ものはできている。しかし、器の中心のなにも無いくぼみがあってこそ、器ものとしての効用(はたらき)がはたせることになる。戸口や窓をくりぬいてそれで家はできている。しかし、家の中心のなにも無い空間があってこそ、家としての効用がはたせることになる。
だから、なにかが有(あ)ることによって利益がもたらされるのは、なにも無いことがその根底でその効用をとげているからのことなのだ。」

参考:老子道徳経


我々も同じだ。
なにも無い部分。
つまり、「何をやらないか」が、「何をやるか」を一層輝かせることになる。


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[ 2012/11/06 12:22 ] 人物 | TB(0) | CM(0)



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